自分のレベルアップが分かる一冊
気象予報士 はれほれ 氏

 近藤邦明氏の著作「温暖化は憂うべきことだろうか」が増刷されることになったと聞いた。大変喜ばしいことと思う。今の我が国でこのような硬い本が売れるということは少々意外ではあるが、この国もまだまだ捨てたものではないと感じている。
 この本は3つの章からなっている。第1章「生きている地球」では環境問題を「人間活動の影響によって人間の棲息条件が悪化する問題」と定義して氏得意のエントロピー論を駆使し俯瞰的に解説している。「地球を守れ」とか「絶滅危惧種を救え」などとかく偽善的なにおいのする環境論議が多い中でそこまであっさり人間中心主義に徹底できることは大変小気味よく感じる。
 第2章「二酸化炭素地球温暖化脅威説批判」はその名のとおり人為起源の二酸化炭素による地球温暖化脅威説の批判をさまざまな科学的な観測データから反論を試み、気候モデルによる予測のあり方に疑問を呈している。特に「近藤曲線」と言われるCO2の年増分と全球海面水温偏差のグラフは海水面の温度変化により大気中CO2濃度が変化することを示したものとして後の物理学会誌でも話題になっている。

 第3章「温暖化対策が環境問題を悪化させる」では現存の石油代替エネルギーとされる原子力や自然エネルギーについて考察を加え、どれもばっさり切り捨てている。ここでは「工業的産出物の価格が投資エネルギーを反映する」という考えを一歩進めて「発電コストから投資エネルギーを類推する」という手法を用いている。この手法はLCAなどに比べて一般的ではなく近藤氏独特のものであるが、最近では「暴走する地球温暖化論」で武田邦彦氏が同様の手法によりリサイクルを論じており、方法論として世に認められつつあるように思う。私自身は「技術が一定のレベルに達していること」、「市場に自由な競争原理が働いていること」この二つの条件のもとに近藤氏の手法は成立していると考えている。
 著者が最も力を入れたと言うだけあって第1章は環境問題の本質に迫る内容で難解である。発売当初に2,3度読み返したのだが難しすぎて正直なところエントロピーが苦手な私にはほとんど理解できなかった。槌田敦氏や近藤氏の著作はものごとの本質をついているために常識的な見地から考えては理解できないところが多々あるように思う。このため著者の真意がつかめない人も多いと推察される。しかし「自分に理解できないから」という理由で批判をするのではなく理解できるように努力することが重要である。
 私は近藤氏とは7年前にインターネット上の掲示板を通して知り合ったのだがこの間、氏の主張が完全に理解できたわけではなかった。4割賛成、2割反対、 4割理解できずというところだったと記憶している。昨年末大分で気象予報士会が開催された時にたまたま近藤氏にお会いして直接意見交換をする機会を得た。当時話題になっていたヒートポンプなどを通してエントロピーの考え方について教えていただき、少しは自分でも賢くなったかと思っている。この時の昼食の借りを返すため?ここに推薦文を書かざるを得なくなり本書を再度読み返してみたのだが、私にとっては鬼門だった第1章がよくわかるようになっていたので大変驚いている。
 一度読んで理解できないからといってあきらめずに自分を鍛えなおしてもう一度読み返す。この本は自分のレベルアップと共に読後に見えてくるものが変わってくる。ぜひ手元において読み直していただきたい。それだけの価値がある本である。

『信じる』から『考える』へ。
近藤邦明著「温暖化は憂うべきことだろうか」を読む
蝦夷縞ふく朗

 人間の「善意」というものは何と危なっかしいことか。善意をふりまきたくて、熱心にリサイクル・二酸化炭素削減を口にする人々が増殖し続けている。テレビでは連日、二酸化炭素による温暖化が放送される。最近は疑問の声もわずかばかり流されるが、あくまでもバラエティー番組の中のことであって、真剣に議論されることはない。
 公害、薬害、生活を破壊するダム・埋め立て、原発とその関連施設・・・。人間を壊し続けるものとの闘いは果てしなく、差別という人間の不毛を暴き出す。今日の官・民・マスコミ一体となった二酸化炭素削減というお題目の合唱などというものは、生活の破壊と死を背負っての苦しみの中から人間を取り戻そうとする闘いと、まったく異質のものだ。
 真の善意にあふれた人がいつも多かったなら、過去において大きな環境問題を引き起こすようなことはなかっただろう。今なお続く破壊は、こんにちの「善意」がニセモノであることを示している。リサイクルや二酸化炭素のことさえ言っていれば、誰とも争わずにすむ、しかし環境にいいことをしているという「善意」の発露は満たされる、という点が多くの人をひきつけているのだろう。
 リサイクルというものは結局、消費者が分別という労働と税負担を強いられることになって、大量生産・大量廃棄というシステムをより強固なものとした。この「善意」の集まりのような運動は社会のあり方を見直すのではなく、それまでのあり方をより拡大していく方向にはたらいた。そして他の問題点を多くの人の頭から忘れさせ、積み残すための力となった。
 二酸化炭素削減も、何かしら貢献できるという幻想で人々を惑わせている。とうもろこしのバイオエタノール化は穀物の価格を高騰させ、食糧不足をより深刻なものとした。この先には炭素税の導入などが控えているのだろう。温暖化の危機は連日報道されるが、ダムも干拓も原子力施設も、ほぼ忘れ去られている。たとえばアラル海が干上がっていく問題にしても、旧ソ連の大規模灌漑事業が原因であると思っていたら、最近のテレビでは温暖化が原因なのだそうだ。きっと、何でもかんでも温暖化のせいにしてしまえば誰も責任を問われないからなのだろう。この先何が起ころうと、すべては温暖化が悪いのであって、食料がなくなろうが森林が切り倒されようが海が濁ろうが、すべての被害と負担は私たち庶民が均等に負うべきこととされるのである。

 温暖化の原因は本当に二酸化炭素なのか、ということについてどれほどの人が自分の頭で考えようとしただろうか。ある程度年齢を重ねた者なら、1970年前後に地球の寒冷化が取り沙汰されていたことを覚えているだろう。ごくわずかの気候の変動は、昔からいつでも死活問題だ。20年や30年間ごときの変化で未来の気候を予測などできるわけがない。人間はそのつど変化を受け入れて、または受け入れざるを得ずに、右往左往したり工夫したりして生きてきた。現在がわずかの温暖期で農業生産に適しているとしても、この豊かな気候が長く続くとは思えない。温暖化するときはゆっくりと、そして飢饉になるような低温は急に訪れるようだ(本書54ページのグラフ)。こうした過去の変化を眺めていくと、今緊急にしなければならないことは二酸化炭素を減らすことではなく、来るべき寒冷の時代に備えてどのような社会的システムを築いていくか、である。そのときに農業生産ができる地域の自然を、今、石油が使えるうちに回復させておくことが必要だ。マスメディアはいったい何を目指して二酸化炭素説をふりまいているのか、誰がマスメディアを動かしているのか、興味深いことではあるが、今、ここでは、それは近い将来に明らかにされるべきものとしておこう。ただ自由にものが言えない状況が(言えても無視される状況が)人間の幸せにつながることはないだろう。

 私たちは何が本当のことであるのか、どのようにして知るのであろうか。かなりの人がテレビの健康情報バラエティーで流されたことを信じ込み、スーパーマーケットでその商品が売切れになるほどだった。売り切れないように生産者が増産体制に入ったところで、科学的な裏づけのない情報であることが暴露され商品が大量に余った。この例で見てもわかるように、情報をまず疑わず受け止めてしまう性癖があるようだ。対立する情報に同じ量・強さで触れたときにだけ、初めて自分で考えようとするのではないだろうか。また、単に情報というだけでなくこんにちの二酸化炭素のようにあらゆるマスコミが一斉歩調をとっていくと、あえてそれに異議を唱えることをしないのが常識人だと思わされているのではないだろうか。

 この書評を読む人には三種類いる。
 一つ目は二酸化炭素説を信じている人。何とかして「二酸化炭素が原因ではない」という考えを論破しようという動機だろう。しかし、どの場合も、また本書の場合も、「二酸化炭素説では"説明できない"」ということしか言えない。この本でもどのような本でも、あらゆる気候変動が説明されているわけではない。いまだ解明されていないのだ。むしろ二酸化炭素説をとる人々にこそその証明の義務があるのであって、二酸化炭素が原因だとする人々が、いまだ解明されていないような気候変動の原因が「本書で説明されていない」などと揚げ足取りをするのは的外れだ。完全に説明するべき義務は二酸化炭素説をとる人々にこそあるのだ。
 二つ目に二酸化炭素説が嘘だと思っている人。より確かな論拠を求めていることだろう。そういった方には、データ・図版・出典などの記述がしっかりしており、充分役立つことと思う。
 三つ目にどちらが本当か考え始めた人。考え始めたというところがすばらしいことだと思う。二酸化炭素の脅威をセンセーショナルに掻き立て、ビジュアル的にも刺激的で美しいものがあふれている。そうした中でこの本に目を向けられたのは数少ない出会いというべきものだろう。
 二つ目・三つ目の方々のために。
 本書にはやや数式が多い。なぜかというと、まぜっかえすように反論をしたがる人というのが現実にはなかなか多くて、それに対して【科学】という土俵で本職の科学者にもしっかりと正確なことを伝えようという著者の強い意図が、まず前面に出ている。これまで『環境』に対する問題意識で温暖化・二酸化炭素削減に関する情報に接してきた皆さんには、ややとっつきにくい部分があるかもしれない。しかし、これまでの書物や情報が、なぜわかりやすかったのかを考えてほしい。理由の解説は「二酸化炭素には温室効果があります。今地球は温暖化しています。」程度でそれ以上の証拠やデータの解析の仕方は解説されていないはずである。つまり『煽る』ことが目的なので、わかりにくい(科学者にも説明できない)ところはすべて省かれた情報だった、中身がないからわかりやすかった、ということに気づいてもらいたい。「わかりやすいから鵜呑みにする」などということに疑問を感じることができれば、本書の意義は半分以上達成できたと考える。
 数式については、苦手ならまずそこは飛ばして、概念図やグラフの解説を中心に通読してほしい。地球のシステムの、歴史と全体像を描くところから本書は始まる。気候は地球のシステムの一部なのだから、それをまず私たちはとらえなければならない。大学受験に地学がなくなってからというもの、高校で地学が教えられることもほとんどなくなっている。多くの人が地球環境について考えるもっとも基礎的な部分を学んでいない状況である。ぜひ、他の解説書やネットでさらに深く学んでもらいたい。新生代後半の寒冷は南極大陸が他の大陸から切り離された上、還流が完全に南極大陸を孤立させ、地球が巨大な放熱器を備えた形になったからである。ここ数百万年間での気温の低下傾向は止まっていないようである。
 本書の目的は二酸化炭素が温暖化の原因ではないことを伝えることである。その説明のためにあらゆる知識が総動員されるが、その中で使われる概念の解説にはあまり多くのページを避けなかったものだろう。ややとっつきにくい部分があったとしたら、それを理解しようとする出発点として有効に活用できる。その中でも、科学にある程度親しんでいても分野違いだとやや難しいのが『エントロピー』だろう。高熱と低温があれば蒸気機関のように物を動かす力として利用できるが、温度差の少ないごくわずかの熱というのは利用できず宇宙に捨てるしかない。こういう、利用できない・散らばった・密度の薄いものを「エントロピーが高い」というが、これを科学系でない人が数式を使わずにイメージできるにはやや時間と努力が必要とされるだろう。しかし、あらゆる角度からの検証を加えているので、まずご自分の良く納得できるところから考えていくことをおすすめする。

 巷間、二酸化炭素の危機を訴える書籍・報道があふれかえっている。しかし立ち止まってよく考えていただきたい。説明を省略して勢いや「わかりやすさ」で暗示にかけるようなものであるなら、一旦は頭の中に「?」をマークしておいてほしい。わかりやすさに対して「?」マークである。わかりやす過ぎるのは、面倒な説明を省いて、短くし、結論だけを繰り返していくからである。
 知らなかったこと、知らないために理解しにくいもの、それを避けていては本当の理解は得られないだろう。そして、多くの人と共通の理解の下に問題を解決していくには、やはり絶えることのない「対話」が必要である。決して相手をやり込めるということではなく、二酸化炭素削減を口にする人には説明の責任があるのだから、科学的な疑問点を提示して対話してもらいたい。本書のグラフなどを示して、「どう思う?」などときっかけにするのも良いことだろう。文章だけで二酸化炭素説をけなしていくようなものとは違い、あくまでも科学と環境の視点を貫く本書は冷静に物事を考え始めるために大切なヒントを与えてくれる。
 あなたが二酸化炭素削減に取り組んでいる、または肯定的な考えを持っている場合は、この本に提示される疑問点に対して、事実を示しつつ説明できるかどうかをご自身で検証していただきたい。それが二酸化炭素の削減を多くの人にはたらきかける人の義務であると思う。

 本書は小説ではないのだから、初めから順番に読まなくてはならない、などということはない。もし環境に関する何がしかの活動や発言をしたり、意見をお持ちなら、『第三章「温暖化」対策が環境問題を悪化させる』から検討を加えていく、というのもいいだろう。三分の一をはるかに超えるページを割いているのだから。風力・太陽光発電が、結局は石油のエネルギーなしに成り立たず、石油をより浪費させるシステムでしかない、社会に対する負担が非常に大きいものである、などが納得できることと思う。

 世界中が温暖化対策をしているのだから、それ(二酸化炭素原因説)が間違いであるはずがない、とあなたは考えておられるだろうか? 多くの人が言うことは正しい、というのであれば、個人はなにも考える必要はなくなる。世界中が理由の希薄なものに熱狂することを看過していていいのだろうか? 世界の政治上の思惑や取引については、また別な分野の分析が必要になるわけだが、これは科学の問題である。科学は決して資格や権力ではない。専門教育を受けていなくても、思考の過程を丁寧になぞっていけば、いつかは答え(ここから先はまだわからない、というのも重要な答えだ)にたどり着くはずである。科学にとって大事な態度は、『懐疑』と『検証』である。

 最近、出版物やテレビで、ようやっと二酸化炭素に対する懐疑論が目に付くようになってきた。しかし注意が必要だ。どうも、そうした懐疑論の流れは、結局環境問題など存在しない、という方向へ持っていこうとしているように思えるのである。核開発システムの中にいたような人が活発に発言をする。国家主義的な思想を文章に挟ませる。ことは科学の問題であるから、二酸化炭素については同意できるが、別な流れを引き起こそう、思想や政治の流れを引き込もう、そうした材料のひとつと考えているふしが見受けられる。
 ミナマタは、日本の近代とは何か、工業化社会とは何であるのか、という問いかけを私たちに投げかけ続けている。ダムも埋め立ても、人間そのものを壊し続けている。それに対する先人たちの命を引き換えにした問いかけを、私たちは受け止めているだろうか? 本書は、環境問題を真剣に考えるからこそ、二酸化炭素なんぞにかかずらっていられない、という想いからできたものだ。根本も、出発点も、目指すものも、今少し出回りだした懐疑論とは一線を画しているのである。ぜひ手元に置いて、少し読んでは考えをめぐらす、ということを繰り返してほしい。他の本も参考にして広がりを持ったら、また読み込んでいってほしい。ものごとの根本を考えてみようとする態度こそが、垂れ流される情報の海の中で判断の時間も材料もない今の社会に、もっとも欠けていて、必要とされることだと思うのである。(2008/01/20受付)

近藤邦明著「温暖化は憂うべきことだろうか」書評
国立沖縄高専 中本正一朗

 著者近藤邦明は気象学者ではない。「気象学者でない者が温暖化について書いたことが信用できるか?」と疑う者は気候が温暖化するとはどういうことかを考えてみればよい。過去100年間に大気中の二酸化炭素濃度が上昇していること、また現在の地表の平均気温は100年前の地上の平均気温よりも上昇していることが観測されている。著者はこの本で「大気中の二酸化炭素濃度や平均気温の上昇は嘘である」といったり「100年前の世界の平均気温の推定方法にケチをつけたり」しているのではない。この本を読めば、大気中の二酸化炭素濃度をどのようにして測定し、地上の平均気温をどのようにして推定するのかを知り、大気中に放出される二酸化炭素濃度を現在の2倍に倍増したときに世界の平均気温の上昇をどのようにして決めているのかがわかるだろう(注1)。

 第1章は生きている地球、環境問題を見る視点がかかれている。環境の物理化学的状態を記述するだけでは十分ではなく、地球の環境状態の物理化学過程には必ず生きものが共存することを考慮することにより、地球の状態をわれわれはより深く理解できることを、著者は平易な物理学の概念を用いて説明する。この章は従来の気象学や海洋学の教科書では省略されているから、気象学や海洋学のみならず地球の環境がどのような問題を抱えているのかに関心のある人には必読であろう。

 第2章二酸化炭素地球温暖化脅威説批判はこの本で読み応えのある章(ハイライト)である。日常の新聞やテレビに登場してくる気象学者や大学教授やテレビタレントはわれわれが石油や石炭を燃焼させることがまるで我々人類の敵であり、したがって我々人類共通の目的は石炭や石油以外のエネルギーを開発する新しい産業社会に向かうことであるかのように説教しているようにみえます。テレビに登場する人は二酸化炭素が大気中に蓄積するから地上気温が上昇し海面が上昇しているのだから、二酸化炭素の排出を削減すれば世界の気温上昇が鈍化し世界は破滅から逃れることができるといい、世界中は二酸化炭素を排出しない新技術による産業社会の再構築にむけているといいます。

 著者はまず現在までに観測された事実と現時点では観測されていないが二酸化炭素の温室効果の論理を進めるための作業仮説とに分類します。そして、このような二酸化炭素地球温暖化仮説を立証するためには、まず観測された事実にもとづき何を議論しなければならないかを指摘します。著者は水蒸気やメタンや二酸化炭素などの温室効果ガスの役割はもちろん、火山噴火や海洋深層から海洋表層への上昇流れによる温室効果ガスの大気への流入過程や、太陽黒点観測データと地球大気の平均気温の相関関係について紹介し、二酸化炭素や水蒸気などの温暖化ガスや寒冷化ガス(エアロゾール)による温室効果や火山や太陽などの大気系にたいする外部環境の擾乱も大気温を決定する要因であることを紹介します。次に大気中に流入した炭素が大気から流出される過程を現在の観測技術でどこまで理解できたかを紹介します。テレビや新聞では炭素の循環過程も気候温暖化予測模型には考慮されていると専門家がいいます。しかし、専門家が考慮したからといって、専門家の考慮が正しいという保証はどこにもないことがわかります。このような観測データが不十分な知識しかもたらさないのに、将来の地球の大気の温度をコンピュータで予め言いあてることを気象学者たちは気候の予測(Climate Prediction)と呼んでいましたが、最近では見通し(Climate Projection)という日本語に翻訳して呼ぶ気象学者もいます(注2)。

 著者は実際に地球シミュレーターを用いて二酸化炭素温暖化予測を担当した江守正太氏にインタビューして江守氏の正直な発言を採録しています。この本に告白しているようなことを最近のテレビに登場する最近の江守氏から聞く機会はますます困難になるような気がいたします。

 第3章は温暖化を防ぐ対策として盛んに政府や産業界や大学教授たちが宣伝している技術開発の殆どが単なる思いつきにもとづくものであるとし、それらの技術を開発し利用していると思っていても、物理学的な検討をしてみれば実は石油の無駄な浪費になっていることを実例を挙げて紹介しています。1990年ごろからこの国では「地球温暖化を抑えるエネルギー開発」という美辞麗句が飛び交い、環境保護運動に参加することによって未来が明るくなるような錯覚さえ覚える現代です。

 評者の経験からも結論するのですが、政府系の研究機関や大学で環境問題を職業としていると、自らは意識していなくても知らず知らずのうちに国策の方向とそれに沿う圧力が自らの内に芽生えることがあります(注3)。政策決定者のために書かれた気候温暖化の本は結局は学問にはならないのだ。

 この本では「気候予測模型が欠陥がありまた気候予測モデルの計算結果が定量的な評価に耐えないこと」が指摘されている。気候変化に関心のある若い気象学者や海洋学者にはぜひ本書を読んで、著者が指摘している点を真剣に考えてほしい。著者に無理な注文をつけるとすれば「著者が主張するような気候模型の欠陥や計算結果が定量的な評価にたえない」ことを気象学者や海洋学者がすぐ理解できるような文献(たとえばBony著2006年のJournal of Climate)などが巻末に挙げてあればとおもう(注4)。しかし、これは怠惰な評者や読者の「無いものねだり」であろう。気候変化の専門家たちが本書で指摘されている点を専門分野の文献で確認することにより、本書が気象学者や海洋学者の協力を獲得することに成功すれば本書は生命の存在する輻輳多様系としての地球をわれわれが理解する指針となるであろう。

 「二酸化炭素が果たす温室効果が地球の気候の変化と現在の異常気象を完全に決めているのか?」という課題はわれわれの学問へのすばらしい挑戦である。 17世紀のヨーロッパの機械論哲学の勃興とニュートンの力学の発見から20世紀初頭の確率過程の発見を経て我々が持っている演繹主義と帰納主義をどのように使えば、現在の生命系が存在する地球環境の問題を解決できるのだろうか?気象学や気候学を専門の職業とする人や政治家や産業家だけに任せておくだけでは二酸化炭素気候温暖化仮説が果たす諸問題はますます混乱するということを著者は我々に問うている。
(2008/01/15受付)
(注1):事実を積み上げていき、ここから法則をまとめる思考過程を帰納的方法という。
 事実とはわれわれが証拠を持っており、我々のだれにでも受け入れられる論理である。この論理はだれが実験してもだれが観測しても同じ結果を導ける論理である。著者は産業革命以来の二酸化炭素の排出が過去100年間の地球大気の温暖化の原因であることはこの世の中で観測されていないという。
 何が観測できて何が観測できないかを専門家は非専門家に正直に公表しておかないと、専門家は非専門家を煙に巻くことになる。水蒸気が過去100年間に大気の温暖化過程で果した役割はどのようにして証明できたのか?
 現在までに我々に観測された事実は過去100年間の地球の大気温度の上昇と大気中の二酸化炭素濃度やメタン濃度や太陽放射エネルギー強度には正の相関があるということである。
 著者は決して空想を述べているのではなく、専門家たちが集積した地球の大気の観測データだけを使い、観測データから何が結論できるのかを議論している。気象学を専門としない大多数の読者には気象学者たちが未来の地球の気温をどのようにして予測するのかは知らされない。著者は「数学方程式を高価なコンピューターに計算させて将来の地球の大気温度を予言するのだから正しいに違いないと思ってはいけない」という。
 一見すると難解そうな数学方程式を高価なコンピューターで計算させても、それは所詮は数学方程式をコンピューターグラフィックスで美しく見せた絵空事にすぎない。その美しい絵空事がどれだけ現実の地球の気候を真似しているかを判断するためには、その数学方程式が現実の地球を観測したデータで確認されなければならない。
(注2):コンピューターを用いて気候を予測するということが不可能であることを実は気象学者は熟知しているのだと評者は考えています。
(注3):評者は1995年に認可法人海洋科学技術センター(現在は海洋研究開発機構JAMSTEC)で地球シミュレーター用次世代海洋循環モデル開発の責任者である。このとき開発した地球シミュレーター用次世代海洋循環モデルとその後の地球シミュレーター用気候モデル開発段階で評者が果たした役割については2007年3月に東京地裁民事36部不当解雇撤回裁判(裁判官:知野 明、原告:中本正一朗、被告:坂田俊文)での裁判記録(AESTO常務理事:西村良弘証言)に詳しい。
(注4):いまのところ我々に観測されていない物理量でもそれが存在するための論理が存在する場合があるという例は電気力学におけるベクトルポテンシャルであった。しかし、ベクトルポテンシャルの実在も実験で証明されたのである。二酸化炭素よりも温室効果の強い水蒸気は地球大気を温暖化する。「水と二酸化炭素のいずれが温室効果の犯人であるか?」という問題はBonyの論文では明確に議論されている。

単なる傍観者による評論家的な本
千葉県 トム・キャット氏

 二酸化炭素増加による地球温暖化懐疑論者がいることは承知で,この本を手にした。
 まず,批評をするにしては,引用している文件数があまりに少なく,一部の人の著作に偏っている。著者いわく,自分たちで調べて,確からしいと思える情報をもとにしたとあとがきにある。そもそも,確からしいと判断したのは著者であって,そこには情報の意図的な情報の選別が入る。批評をするには,中立的な立場で,物を言うことが重要である。そのためには,有る程度の文献調査が必要である。
 IPCCの第4次報告前に出版された本であるからしょうがないが,IPCC第4次報告では,現在考えられる自然界の影響だけでは説明できないものがあり,人的影響による温室効果ガスの影響としか考えられないと言っている。IPCCには,各国から資金が出されているので,その書かれている表現には政治的に影響されている部分もあるという事は十分に考えられるが,世界の多くの科学者が,これには参加している。その全てが間違いであるというのか。
 また昨今の異常気象(ハリケーン,台風の大型化と発生頻度,温帯地域では発生しないと言われていた台風の発生(確かブラジル),局所的な降水,旱魃,氷河の融解,永久凍土の融解,北極やグリーンランドの氷の融解,南極の氷棚の崩壊等々並べたらきりが無い)を,著者はどのように説明するのか。CO2による地球温暖化の影響は全く皆無というのか。これらについての説明(記載)は一切無い。あるのは,全てに対して”No”と言っているだけである。
 また,著者は京都議定書が批准されたことも,残念がっている。何故だ。少なくとも,先進国では,環境問題に前向きに取り組む姿勢に歩調を合わせたのだ。何がいけない。京都議定書の数値目標ではあまりに効果がないことが明確になったので,COP13では,その目標の見直しとアクションプランの策定が行われたが,最終的にはまとまらなかった。それこそ残念なことである。しかしながら,COP3で批准しなかったアメリカ,オーストラリア,また途上国になっている中国,インドなども環境を前向きに捉えるようになったこととの意義は小さくない。
 また,著者は,気候予測数値実験についても批判している。そもそも,数値実験(数値シミュレーション)にモデル化は必須である。複雑な現象をモデル化なしに解くことは,如何に高性能なコンピュータをもってしても,不可能である。モデル化には,現在把握されている物理現象は盛り込まれている。そして,色々な物理モデルが試されて,そして,実験データ,過去の実測値との検証を行って,それから予測計算を行うのが常である。だから,仮定が付いているのは当然のことである。仮定がついているから,科学的に信憑性がないと言うならば,今の世の中で行われている全ての数値計算を全て否定する事と同義である。それでは,何もかも実際に物を作らないとわからないと言うのか。地球を作って実験しろとでも言うのか。それこそ愚直である。また,この本では,日々の気象現象の予測もできないのに,気候変動が予測できるのかと疑問を投げかけている。しかし,日々の気象現象の予測と,気候変動の予測とでは,計算の仕方が異なる。ミクロな現象,マクロな現象を扱うには,各々それに最適な計算方法を用いるのが一般的である。当然,用いる物理モデルも異なるし,離散化手段も異なる。当然,要求される解の精度も異なる。当然,IPCCでは,いくつものモデルケースを計算しており,各々でシナリオを描いている。
 この本の最後にエネルギー問題を取り扱っているが,これも全てが否定されただけで終わっている。確かに,イニシャルコストをランニングコストで回収できないものがほとんどであるが,脱石油依存社会(低炭素社会)を模索することは,サスティナブル社会を構築するためには非常に重要である。またLCCで評価することも必要である。
 環境問題をビジネス,また政治的に利用する事に反対することに対しては異論はないが,地球規模での問題なので,政治がイニシアティブをとることはやむをえない。また,環境にやさしい製品を生み出す,研究開発,製造技術はこれからさらに要求される事である。これを具体的に実現するのは,国の研究機関であり,既存のメーカーである。メーカーは利益を出さねばならないから,ビジネスとなるのはやむをえない。実際,この本の出版社も利益がでるから,出版したのだろう。
 この本には,”CO2地球温暖化脅威説の虚構”と副題があるが,この本の筆者の言うには,何もしないことが良いそうだ。ならば,この本の出版も,ホームページの運営も全てやめるべきである。少なくとも石油エネルギーが消費され,CO2が排出されている。
 地球規模の気候変動は,1〜2年で結論が出るものではない。我々は,今,自分たちが生きていない未来の時代に対する責任を負うている。少なからず,CO2排出による地球温暖化の危機の可能性があるならば,それに取り組むのが我々の使命ではなかろうか。評価は後世の人びとがすれば良い。
 ということで,この本からは得るべきところがあまりにも無い割りに値段が高いと思う。この値段を払うならば,他の本を選ぶべきであろう。良書はいくらでもある。
 このレビューを最後まで読んでくださった方がに言いたいのは,色々な情報を取り入れ,多角的に,自分の頭でよく考えて,疑問があれば調べ,行動して欲しいと言う事である。1冊の本を読んで,それで納得してしまうのは良くない。
 その点だけを見れば,この本の著者は評価に値する。

地球温暖化問題の摩訶不思議
「温暖化は憂うべきことだろうか」に常識の逆転現象を見る
兵庫県 ヤブコウジ健太

 すべからく真(まこと)なるものは見えにくく聞こえにくい。偽(いつわり)なるものは見えやすく聞こえやすい。という言葉にはかなり真なるものを含んでいる。と、ついそんなことを言いたくなるような昨今の情勢である。
 なぜでしょうか? まず真なるものが何ものかによって覆い隠されているということがあろう。また、たくさんの挟雑物に埋没してしまい見分けられないということもあろう。それから観察者の先入観などが邪魔をしてよく見えないことなどもあるかもしれない。ものごとは見ようとする対象物を認識していて見るぞという意思がなければ、なにも見えないことが多い。それを見せたくないなにかの意思が、偽なるものをあたかも真のように喧伝することなども考えられる。このようなことから、真なるものは見えにくく聞こえにくいという現象が起こる。
 環境問題や地球温暖化問題にも、一見して真のような偽の話や、偽のような真の話が多く見受けられるような気がしてならない……。

 近藤邦明氏の『温暖化は憂うべきことだろうか』を読んで思った。"二酸化炭素を削減するためには石油を燃やさなければならない。二酸化炭素を出す石油を減らそうとすればするほどかえって二酸化炭素排出が増えてしまう。"えっ、まさかという摩訶不思議な「常識の逆転現象」やパラドックスがここにも生じているということだ。このパラドックスが環境問題や地球温暖化問題を複雑にし、迷走させている原因のひとつでもあろう。さらに言えば人の頭の中は果てしなく広くしかも希望と欲望であふれている。これらの思惑だとか欲望がからんでいるのでよけいに複雑になっているのだ。
 石油を燃やすと二酸化炭素を吐き出すから、石油に代わるものとして二酸化炭素を吐き出さない新しいエネルギー源を開発しなければならない。そこでいろいろな石油代替エネルギーが推進された。それはそれでけっして誤りではなく真である。しかしよく見ると石油を代替すると謳われた夢の自然エネルギーは、すべて石油を代替するどころか石油に依存した不安定な効率の悪いサブシステムでしかなかった……。そのため石油代替エネルギーを推進すればするほど、石油を燃やすこととなったのである。それならば石油代替エネルギーを棄却して、節約の努力をしながら石油を燃やしていたほうが二酸化炭素排出は少なかった……。かくして"二酸化炭素排出を減らすためには、石油を燃やさなければならない。"という不思議なパラドックスが生じるのだ。本書を読む前には理解しがたいこの「非常識」も、読んだあとではすっきりと理解できる。
 もちろん石油をじゃんじゃんと野放図に燃やせと言っているのではない。エネルギーや資源を大切にして質素に節約して使うことは言うまでもない。本書ではエネルギー問題や環境問題はではどうしたらいいのかまでは述べられていない。しかし本書を通読した後には自然に見えてくるものがある。
 例えば、人類は野放図な経済拡張主義や利潤追求主義に走らず、自然の循環や摂理の中であくまでも自然の一部として、欲を出さずむさぼらず物は大切にして節約して暮らす。そして生態系の物質循環システムに乗らない廃棄物はださず、静かに穏やかに生きる、などは一つの解であろう。解は一つではないし、いろいろな解があってもいい。しかしながら人類の石油文明・工業文明がこのままでいいのかどうか再検討しなければならない時期にきている。
 地球温暖化のお祭騒ぎがにぎやかであるが、踊り疲れただろうからここらへんで少し休憩しよう。そして人類の生活や社会がどうあるべきか、人類がこの太陽系第三惑星の上で地質年代的時間の永きにわたり持続的に暮らしていくにはどうすればいいか、みんなで考えよう。と、拡大解釈すれば本書はそう呼びかけている。

 半年ほど前に、情報の大海原の中から偶然に近藤邦明氏のウェブサイトを発見した。情報の嵐のなかで波間に見え隠れする漂流者に救命浮環を投げてくれるサイトであることがわかった。そしてこのたび近藤氏の本を送ってもらって通読した。サイトも素晴らしいが、本はそれにもまして一段と素晴らしい。たくさんの「真なるもの」がどの章どの節にも綺羅星のごとくならんでいる。
 読者は、一見すると真であると思われたものが、そのベールを次々にはがされて、とんでもない醜悪な姿が顕わとなることに戸惑うかもしれない。しかし熟読玩味すれば近藤氏の言わんとすることが理解できよう。本書には確かな論拠がある。この本は奇妙な「二酸化炭素による地球温暖化脅威説」のおバカ騒ぎに挑戦し、大きな一石を投じる画期的な本だ。構成のしかたや本のレイアウトや記述のスタイルとか、教科書的な格調すらこの本にはただよっている。地球温暖化問題の基礎をじっくりと学ぶには最適の本だ。
 この本が池に投じた一石から波紋が広がるように、国民の間にあまねく普及することを期待したい。それだけの価値のある本だ。「得るべきところが少ないのに値段が高い」などと不明を言う者がいるが、そんなことはけっしてない。値段以上の、値段をはるかに超える価値がこの本にはある。本書を強く推奨したい。

 ちなみに私は単なる一読者である。地球温暖化問題に関する自然科学問題としての学説とか、政治や行政の動きや取り組み、温暖化ビジネスに暗躍する企業の動き等、私はよく知らない。書評を書くにはまず文献調査を十分にしてそれらのことをしっかりと把握・認識しなければならない。したがって書評など書けるはずがないし、また書くべきでもない。
 また私は理工系の分野の人間では全くない。理工系の分野からは一番遠いところ対極のようなところにいる人間である。しいて言えば人文系か庶民系とでも言うべきところの住人だ。二酸化炭素が地球温暖化の原因かどうか、二酸化炭素の増加と同期して起こっている気温の上昇が本当に因果関係があるのかどうかは、自然科学の問題であろう。門外漢が口を出す問題ではなかろう。
 しかしながら、この問題はもはや気象学者たちのギルド的な学会の閉鎖系(一般社会からは閉鎖系)のなかでの学術論争ではすでにない。全国民・全有権者・全納税者にのしかかっている大きな社会問題・政治問題に変質・発展していて、たんなる純粋な自然科学の問題では済まされないところまで来ている。
 それで書評のようなものを書けといわれたので、素人の的外れな書評もどきではあるが、平均的一市民としての、意見の一例として、率直な感想を書いてみるのもまた少しは意味があろうかと、書き述べてみた。ようするに素晴らしい本であるから推奨したいのである。

 政府・行政・一部の企業・御用学者たちが結託していま進めようとしていることを見据え、彼らが過去にしてきたことをかんがみるならば、近藤氏の本は全国民必読書で時宜を得たものだと言える。彼らが今なにをしようとしているかは、まずはこの本を買って読んでみてほしい。それは第二章第五節(p115〜p126)に舌鋒も鋭く書き述べられている。
 この章を書き述べられるさいには近藤氏は勇気を奮い起こされたであろうことは想像に難くない。これは小心者では書けない内容だ。またそのことが本書を光らせているのである。近藤氏のひたむきな正義感や義憤がひしひしと伝わってくる。近藤氏の正義感の赤外放射を受けてこちらも温暖化して熱くなってくる。世の中で燎原の火のごとく広がるおかしな虚妄説をなんとかたださなければと、やむにやまれぬ思いで近藤氏はこの本を書いたのであろうと想像している。
 奇妙なのは理科系・工学系の分野の専門家・技術者・素養のある人びとから、「地球温暖化の話はおかしいよ」となんの声も上がらないことである。理工系の大部分が動かぬ石仏のように不気味に沈黙している。それで近藤氏が「皆さん、そろそろ本当のことを言いましょうよ」と呼びかけているのではないか。そのようにも読める本である。
 本書をひもとくと理工系の大部分が沈黙している理由がなるほどと了解できる。そしてそのことに戦慄をおぼえる。この国は大丈夫なのかと胸騒ぎがしてくる。この本は、疑問に答えてくれる解説書でもあり、暗闇をてらす啓蒙書であり、環境問題の本質の基礎を学ぶ教科書でもあり、警鐘を打ち鳴らす警世書・告発書であり、呼びかけのメッセージでもある。
 このようないろいろな側面があるというのは良書の必要条件である。『温暖化は憂うべきことだろうか』がまぎれもない良書たる所以である。かさねて本書を強く推奨したい。
 とはいっても数式もあるしエントロピーの概念など人文系・庶民系の門外漢には、難しいところもあるのは否めない。わからないところは飛ばしてわかるところだけを読むという読み方もなされよう。たとえそんな読み方であっても得るところは大きい。それだけのものがしっかりと高密度に盛り込められている。そこで一つの提案であるが、『温暖化は憂うべきことだろうか』を学ぶ学習会を各地で開いたらどうであろうか。そして近藤氏を講師に招聘して講演を聞くのがいいと思う。わからないところはその折に質問すればいい。

 私が特に素晴らしいと感じ、また是非知りたいと思っていたのは第三章第二節である。莫大な補助金が湯水のように垂れ流し込まれて進められる、風力発電・太陽光発電・燃料電池さらに原子力発電も、胡散臭さがありインチキじゃないかと感じていた。しかしながら、直感的にインチキそうなことは感じたが理科系工学系の素養や知識がゼロのため、なにがインチキなのかなにが問題なのかすりガラスを通して見るようにぼやけてしか見えなかった。近藤氏の本を読んだ今では不可視だったものがかなりシャープに透明化してきた。

 私の家の近くに二基の風力発電機がたっている。ひとつは地方自治体が建てた。もう一つは民間企業が建てた。
 その地方自治体は第三セクター方式で風力発電会社を設立した。出資したのは90パーセントが地方自治体である。民間が出資したのは10パーセントだった。そこに政府系機関から補助金が流し込まれた。風力発電機それ自体はほぼ5億円だった。工事が行われたとき観察に行った。山を削り森林を破壊して道路が作られた。建設場所には巨大な穴が掘られた。莫大な量の鉄筋で枠をしてびっくりするほどのコンクリートが流し込まれた。風力発電機を支える基礎工事は壮大なものだった。その工事をしていたのはなんとその地方自治体の首長が経営する建設会社だった。その工事費がいくらかかったかは情報が秘匿されているのでわからない。それが建てられるさいには、環境にやさしいとか二酸化炭素を出さないとか何百世帯の電気をまかなえるとか、さらには観光資源になって町興しだとか美辞麗句が謳われ、華麗に喧伝された。
 ところが完成後はその風力発電機のブレードはまともに回っていない。風車が止まっている時間が多かった。いまでは渡り鳥のちょうどいい止まり木だ。それでけっきょく毎年1000万円ほどの赤字を垂れ流している。莫大な補助金を流し込んだ風力発電プラントが今度は莫大な赤字を垂れ流している。その建設会社が工事をしたかっただけとの疑義を否めない。
 民間企業が建てた風力発電機は稼動開始から1年後に台風の暴風で羽が吹き飛んだ。そして1年近く放置された後に修理していた。莫大な修理費が要ったことだろう。民間のものは採算が取れているかどうか知る由もないが、「こんなものに手を出すのじゃなかった」と嘆いている経営者の姿が目に浮かぶ。
 この先10年後か15年後に耐用年数が過ぎたらどうするのだろうか。大きな構造物だから解体撤去するにも莫大なお金が要るだろう。大型クレーンやパワーショベルや大型トラックが集結して、老朽化した風力発電プラントが解体撤去される姿が目に浮かぶ。それらの建設機械から大量の二酸化炭素が排出される姿も目に浮かぶ。解体した残骸はどこに捨てるのであろうか? 願わくはいにしえより花づな列島とたたえられるこの国の美しい山や川に捨てないでいただきたい。トラは死して皮を残すが、風力発電は死して廃棄物の山を築く。間接的に二酸化炭素も大量に吐き出す。これでは環境にいいとは言えない。
 何がダメだったのか。第一に自然エネルギーは、拡散したエネルギー密度の低い低品質エネルギーだということである。第二に自然エネルギーはその出力がきわめて不安定であることだ。この二点から、施設が巨大になり付帯設備が必要になって、膨大な鉱物資源を食いつぶす。既存の電力供給網に接続すれば、列島大停電パニックが起こりそう。それで電力会社からもう止めてくれないかと、反旗が揚がりだした。為政者はそれでもまだ推進しようとしている。残骸になった風力発電機のみならずダメになった巨大な蓄電装置の産業廃棄物の山の上を、むなしく風が吹いている荒涼たる風景が目に浮かぶ……。
 "風力発電は環境に悪く二酸化炭素を撒き散らす"という通説の偽なるものが本書を通読すれば納得できる。なぜこんな馬鹿なことがすすめられるのか。詳しくは『温暖化は憂うべきことだろうか』p160-172および第二章第五節をご覧ください。氷河が融解するように疑問が氷解するであろう。ところでその氷河の後退が懸念されているが、逆に前進している氷河もあるそうだ。赤祖父俊一先生の『北極圏のサイエンス』p178-181をご覧ください。この本も素晴らしい良書だ。『温暖化は憂うべきことだろうか』とあわせて推奨したい。

 最後に前からとても疑問に思っていたことを、少し申し述べさせていただきたい。
 毎年夏というか暖候期に台風が襲来するが、台風が本土に上陸して川が氾濫したり、堤防が決壊したり、家が流されたりと犠牲者がでると、きまって地球温暖化のため台風が巨大化していると解説・説明される。気象予報士の先生やNHKではスパコン計算士の偉い先生が登場してそう言う。本当に台風が巨大化しているのか?
 台風の巨大さを示す指標にはその中心気圧を比べるのがいい。台風は中心気圧が低いほど風雨が強烈であり暴風圏も広い。中心気圧の示度の低さと台風の巨大さは強い相関関係がある。台風の巨大さを検討するには中心気圧を見るのがいいということに理系の方も異論はなかろう。もちろん風速とか暴風圏の大きさとか他の要素も併用したらよりいいだろうが、ひとつ選ぶとすれば中心気圧だ。日本の気象観測史上に燦然と輝く?巨大台風の上位の観測記録を種々の資料で調べてみた。
日本本土に上陸した台風の上陸時の中心気圧の低い方から並べると(小数点以下は切捨て)
1位 室戸台風 911ヘクトパスカル 1934年
2位 枕崎台風 916ヘクトパスカル 1945年
3位 第二室戸台風 925ヘクトパスカル 1961年
4位 伊勢湾台風 929ヘクトパスカル 1959年

洋上の島嶼の観測所の実測値はものすごい。
1位 沖永良部島台風 907ヘクトパスカル 1977年
2位 宮古島台風 908ヘクトパスカル 1959年

台風の洋上にあったときに観測された実測値はすごい。
1位 20号台風 870ヘクトパスカル 1979年

 最後列の発生年に着目していただきたい。本土上陸の最強台風の室戸台風は74年も大昔であり、2位の枕崎台風は63年もこれも大昔だ。観測史上の巨大台風の上位群は数十年前のものが占めているのだ。近年はせいぜい950ヘクトパスカル程度の台風しか来ていない。これでは近年地球温暖化により台風が巨大化していると解説するのにはかなり無理がある。彼らの解説・説明と気象観測史上の実測値との間には、大きな乖離があり、整合性が全くない。これらの観測事実を無視して台風が巨大化していると説明する裏には、とにかく「温暖化して大変だ、危機だ」と煽りたい意図を感じるが……。
 T大学教授でもあるシミュレーション計算士のE先生が、地球温暖化により台風が巨大化していると解説するのだから、人文系・庶民系の者にはとても理解も想像も及ばないような特別な「台風の巨大さを判定する基準」があるのだろうか?もしあるのならばぜひご教示をたまわりたい。(その先生は、台風は将来さらに巨大化するが、現在でもすでに巨大化しているとの認識を示されている)

 さらに奇妙なことがある。近藤邦明氏のホームページの記事『気候シミュレーションとはなにか』で中本正一朗先生が言及されているNHKスペシャル「気候大変動」の番組がおかしい。その放送で2095年の天気予報をしたのだが、未来予測スパコン計算士?の先生の水晶球に映った「未来天気図」では、ニッポン列島を狙う巨大台風の中心気圧が914ヘクトパスカルになっている。1934年に室戸台風が911ヘクトパスカルを記録している。これでは161年間台風の勢力はかわらないと言っているようなものだ。おかしくはないか? 地球温暖化で台風が巨大化して大変なことになると煽ったつもりが、完全に馬脚をあらわしていると思うが……。なんとも間抜けなおバカな杜撰な話である。煽るのであればもっとしっかりと煽っていただきたい。
 1979年20号台風では870ヘクトパスカルという海面上での世界最低気圧が観測されている。大変だと煽るのであるから、当然この870ヘクトパスカルを下回らなければならない。820〜840ヘクトパスカルぐらいでいかがであろうか。
 830ヘクトパスカルの、もうこれは台風ではない、巨大竜巻だ、超弩級の巨大竜巻台風がニッポン列島を虎視眈々とねらっている。逃げろ!防空壕ならぬ防竜巻壕を掘れ!核シェルターならぬ竜巻台風シェルターを掘れ!ただちに自衛隊は緊急出動せよ。ニッポン列島には安全な場所などどこにもない。お金のある人は海外に退避しろ。退避命令発動!逃げろ!お金のない人は穴を掘って逃げ込め!ニッポン破滅だ沈没だ大浸水だ、すべてを吹き飛ばすぞ、石が飛びブロック塀が飛び車も飛び交う、すべてが灰燼に帰す、瓦礫の山だ、焼け野が原だ、地獄絵だ、カタストロフィーだ、終末だ、末法だ、この世の最後だ、逃げろううう!そして災害対策本部で陣頭指揮すべき首相以下政治家役人みんな逃げた――。敵前逃亡だ!とこのような大混乱阿鼻叫喚の地獄映像を作らなければならない。NHKさんとスパコンシミュレーション先生は煽り方が少ない。もっと臍下丹田に気合をいれてしっかりと煽らなければならない。米国からパニック映画の監督を招いて恐怖パニックの超絶卒倒映像の作り方を指導してもらったらいいと思う。もっと迫力のある、視聴者が足がぶるぶる震えるぐらいの煽り映像を見せてほしい……。
 少し皮肉まじりのおちゃらけが入ってしまったが、こんな胡散臭いことが行われているのが地球温暖化騒動なのだ。米国本土上陸のハリケーンのデータも掲げておこう。
1位 レイバーデイ 892ヘクトパスカル 1935年
2位 カミール 909ヘクトパスカル 1969年
3位 カトリーナ 920ヘクトパスカル 2005年
4位 アンドリュー 922ヘクトパスカル 1992年
5位 インディアノラ 925ヘクトパスカル 1886年

 3年まえのカトリーナでは大騒ぎになったが、一回り巨大な(上陸時の気圧が28ヘクトパスカルも低い)レイバーデイが73年も大昔に襲来している。カトリーナをもってハリケーンが巨大化していると言うのも無理がある。近年ハリケーンがとくに巨大化しているという観測データはまったく存在していない。

 それと夏がどんどん暑くなって熱中症などで大勢の犠牲者がでると煽っているがこれもウソだ。昨年2007年8月に熊谷市で40.9度が観測された。しかし気象観測資料をよくみると74年ぶりにわずか0.1度しか更新していない。1933年に山形市で40.8度、1927年に宇和島市で40.2度など大昔にも40度超が観測されている。昔の気象観測統計はふつう全国150か所ほどの気象台・測候所のデータで作成された。しかし近年はアメダス観測所のデータを加えている。それならばアメダスの前身の区内観測所のデータにすごいものがある。徳島県撫養(現在は鳴門市)で1923年に42.5度が観測されている。この観測値は気象庁外郭団体の気象業務支援センターの『気象年鑑』に掲載されているから気象庁公認だ。この最高気温の日本記録はなんと85年間破られていない。つまり日本の夏の最高気温の極値は全く上昇していないのだ。ただし冬の気温は上昇している。第4次IPCC報告ではこの100年で地球の平均気温が0.74度上昇したとしている。さすれば、しだいに台風が巨大化し最高気温極値が更新されていかなければならないが、観測データはそうなっていない。
 これらの観測事実は、仮に地球温暖化が進行したとしても、気温が上がるのは主に寒帯と温帯の冬であることを裏付けている。夏は変わらず冬が暖かくなるのは、危機ではなく大いに歓迎するべきことなのだ。現在の地球は寒すぎる。むしろ気温が5度くらい上昇するほうがのぞましい。古生代石炭紀(289-367 百万年前)には現在よりはるかに気温が高く二酸化炭素濃度も10倍くらいあったという。それで植物がよく茂り巨大シダの大森林が広がった。この大森林が石炭の起源になった。地球温暖化で植物の生育が良くなるから食糧生産が飛躍的に増える。それはたいへん待ち望ましいことなのである。"すべからく真なるものは通説の裏にあり"と言えそうだ。
 また、夏の都会が暑いというのは単なるヒートアイランド現象とみて間違い。地球温暖化とはまったく別の現象だから、それらを混同してはならない。なぜ、それらを混同して危機だ、大変だ、と大騒ぎして煽るのか?
 端的に言って、温暖化で地球が破滅すると騒ぎ立て、利権やお金儲けにしているやからが大勢いるのだ。温暖化を防ぐ対策というのはよく見ればすべて利権・金儲けの話ばかりだ。それを進めているのは"企業・行政・政治の鉄壁のトライアングル"だ。もちろん御用学者も加担している。

 近藤邦明氏の『温暖化は憂うべきことだろうか』に、なぜ地球温暖化危機説が毎日のようにテレビや新聞等のマスメディアで喧伝されるのか、その詳しい答えがある。ぜひご購入して読んでほしい。
(2008/02/04受付)

 

拝啓 トム・キャット様
HP管理者 近藤邦明

 書評を掲載させていただいた皆さん、ありがとうございます。肯定的な評価をいただきました皆さん、ありがとうございます。しかし、この種の評価で重要なのはむしろ批判的な評価であろうと考えています。ここではトムキャットさんの書評について、少し著者としての意見を述べさせていただこうと思います。

 その前に、全体としての拙著に対する読者の反応について述べておきます。基本的に反応は完全に二つに分かれているようです。先入観を持たずに本書の内容を読まれた方の多くは、幸い肯定的な評価を下しているようです。
 これに対して、全否定する方も非常に多いようです。その中に、従来から環境問題に関心を持ち、実際に何らかの行動をしている方が多いことは非常に残念です。確かに本書の内容は、従来型の環境保護運動=企業や政府主導の国民運動、もっと言えばエコ・ファシズムの体制に真っ向から対立する主張を数多く含んでいるため、こうした反応が起こるのであろうと推測しています。
 こうした集団的な運動に参加することによって、自らの行動に対して残念ながら自分の頭で物事を考える必要性がなくなるために、往々にして思考停止状態になる方が多いようです。そのため、自らの所属するグループの行動規範に対立するような意見に対しては、内容を冷静に判断する以前に感情的な排除の理論が働くのであろうと推測しています。
 私は、この本において第一の目標として、環境問題の本質的な構造を見る科学的視点として槌田敦によるエントロピー理論を紹介しました。そして現在最も警戒すべき環境デマゴーグによる二酸化炭素地球温暖化仮説を取り上げ、更にこれで大もうけをたくらむエネルギー産業の実体を例題として示すことを目的にまとめたものです。
 同時に、私自身技術屋として自然科学的な認識について関わってきた者として、自然認識の基本が事実の観測に基づく帰納的な過程であることを強く意識してこの本を書きました。同時に、昨今の『コンピューター自然科学』とでも呼べそうな、現象の実態から乖離してしまった演繹主義の行き過ぎた拡張に対して警鐘を鳴らすことも一つの目的でした。

 さて、それでは以下にトムキャットさんの書評に対する意見を述べることにします。

 トムキャットさんは当初の段階で大きな誤解をしているようです。トムキャットさんは『批評をするには,中立的な立場で,物を言うことが重要である。そのためには,有る程度の文献調査が必要である。』と言っています。私はこの本を『中立』の立場からの『批評』として書いたつもりは毛頭ありません。トムキャットさんの言うとおり、『そもそも,確からしいと判断したのは著者であって,そこには情報の意図的な情報の選別が入る。』という主張は普遍的に正しいと考えます。つまりあらゆる個人の主張・著書には書き手の主観や立場が反映するものであって、『中立』などと言うことはあり得ません。本多勝一的に表現すれば『立場のない立場』など存在しないのです。
 むしろ問題は、どうもトムキャットさんは二酸化炭素地球温暖化仮説に対する反対意見は偏向した意見と感じる反面、標準的な二酸化炭素温暖化仮説は中立的な立場なのだと思い込んでいるふしがあることです。これでは御自分の主張と矛盾してはいませんか??。
 確認しておきますと、私の立場は標準的な環境問題に対する認識、とりわけ『人為的』二酸化炭素地球温暖化仮説およびその脅威論を否定する立場からこの本を書いたのです

 トムキャットさんは『IPCCの第4次報告前に出版された本であるからしょうがないが,IPCC第4次報告では,現在考えられる自然界の影響だけでは説明できないものがあり,人的影響による温室効果ガスの影響としか考えられないと言っている。』と言います。IPCC第四次報告につきましては、ますます政治的なものになり、自然科学の問題として取り上げるべき点は存在しないと考えております。第四次報告が出たことによって拙著の記述を書き直すべき点は存在しないと考えています。また、自然科学の理論は消去法で証明できるものではありません。
 トムキャットさんは『・・・世界の多くの科学者が,これには参加している。その全てが間違いであるというのか。』と問うていらっしゃいますが、これが二酸化炭素地球温暖化仮説を支持することを指すならば、その通りです。すべてが間違いだと考えています。トムキャットさんは明日香壽川ばりのコンセンサス主義=多数決に惑わされているようです。自然科学において多数決は全く無意味です。重要なのは、その主張が科学的に合理的か否かです。このような設問は全く無意味であり、あなたの非論理性を露呈しています。

 異常気象について、トムキャットさんの挙げている事象に対して、敢えて説明する必要性を感じていません。私の立場をもう少し説明していきますと、確かにこの30年間あまりの期間、世界の平均気温は上昇傾向を示しているようであり、これは観測事実ですから拙著における批判対象ではありません。私は一貫して、この現象の原因を人為的に排出された二酸化炭素による昇温だとする二酸化炭素地球温暖化仮説を批判しているのです。また私は、他の二酸化炭素温暖化批判論者の意見はあずかり知りませんが、二酸化炭素地球温暖化仮説を否定することが目的であり、これに代わる気温の上昇機構を説明する対案を提案しているのではありません。
 トムキャットさんは『CO2による地球温暖化の影響は全く皆無というのか。』と言いますが、逆にトムキャットさんの列挙した『異常気象』が明確に事実関係によって二酸化炭素地球温暖化仮説によって説明されたことがあるのでしょうか?トムキャットさんは私の著書の内容を批判する前に、まず人為的二酸化炭素地球温暖化仮説をなぜあなたが信頼できるものと考えているのかを冷静に振り返ってみてください。そこに現実の観測データから帰納的に人為的二酸化炭素地球温暖化仮説を証明すると判断できるような事実が存在するのでしょうか?
 直接的にトムキャットさんの言う異常気象が平均気温上昇で説明できる事実は存在しませんし、まして平均気温の上昇は二酸化炭素濃度の上昇では説明不可能です。トムキャットさんの言う『異常気象』は自然科学的に『二酸化炭素濃度の上昇の結果』だと言うことは何ら説明されていないのです。自然科学的に説明されていないことを『信じる』ことは宗教的信仰であって、科学ではありません。現状では、『CO2による地球温暖化の影響だと言うことを示す事実は全く皆無である。』と言うのが私の立場です。もちろんこれを覆すような事実があれば是非紹介していただきたいものです。その時には喜んで私も改宗したいと考えます。

 トムキャットさんは『また,著者は京都議定書が批准されたことも,残念がっている。何故だ。』と問うています。自然科学的に誤った認識に立脚した議定書が批准されたので残念だと考えます。何の不思議もないと思います。

 またトムキャットさんは気候予測シミュレーションを『信じて』いらっしゃるようです。気候予測シミュレーションに限らずシミュレーションと言うものは現象が十分把握できた上で、科学的な確からしさが確立された理論に基づいて、これを演繹的に利用する手段に過ぎません。気候の変動という、定性的に見てもまだ全くと言ってよいほど解明されていない現象は、現象の観察から帰納的に理論を組み立てるものであり、この局面において電子計算機の数値シミュレーションなど無意味です。まして数値シミュレーション計算結果で理論を証明するなど倒錯した発想なのです。
 トムキャットさんは数値計算に携わったことがあるかどうか不明ですが、3次元空間の物理現象のシミュレーションはそれほど簡単なものではありません。しかも気候と言う地球規模の無機的自然と生物的自然で構成される輻輳多様系の巨大な問題を時間軸も含めた4次元問題として取り扱うなど、とても出来るものではないというのが数値計算屋の一般的な常識です。例え全ての現象を分析的に解明できたとしても、これを再構成して地球規模の問題に対して意味のある結果が得られることは金輪際ないことです。
 この点につきましては私などよりも沖縄高専の中本教授の書評やHPの記述を参考にしていただきたいと思いますので、この程度にしておきます。

 エネルギー問題についてトムキャットさんは『確かに,イニシャルコストをランニングコストで回収できないものがほとんどであるが,脱石油依存社会(低炭素社会)を模索することは,サスティナブル社会を構築するためには非常に重要である。』は私も同感です。そのためにも似非環境技術は徹底的に批判すべきだと考えています。
 ただ『この本には,”CO2地球温暖化脅威説の虚構”と副題があるが,この本の筆者の言うには,何もしないことが良いそうだ。ならば,この本の出版も,ホームページの運営も全てやめるべきである。少なくとも石油エネルギーが消費され,CO2が排出されている。』はいただけません。これは感情的な八つ当たりではないでしょうか?

 トムキャットさんは『我々は,今,自分たちが生きていない未来の時代に対する責任を負うている。少なからず,CO2排出による地球温暖化の危機の可能性があるならば,それに取り組むのが我々の使命ではなかろうか。評価は後世の人びとがすれば良い。』と言います。いわゆる予防原則なのでしょうが、予防原則とは科学的な認識に立脚したものでなくてはなりません。今のところ『CO2排出による地球温暖化の危機の可能性』がないのですから、この文脈における予防原則とは誤解に基づいた単なる無駄だと考えます。また、評価は後世の人に任せるなどと言う無責任な対応には私は与しません。今何をなすべきか(あるいはなさざるべきか)を議論すべきだと考えます。

 『ということで,この本からは得るべきところがあまりにも無い割りに値段が高いと思う。この値段を払うならば,他の本を選ぶべきであろう。良書はいくらでもある。』につきましては私も忸怩たる思いです。発行部数も少なく売れるかどうかもわからない本では、出版社としてもこの程度の価格設定が限界なのです。御理解ください。また、せっかく大金をはたいて御購入いただいたのですから、偏見を捨てて何かを読取っていただきたいものだと、衷心から切にお願いしたいと思います。
(2008/01/19)

はかた版元新聞
在りのままに見る
不知火書房 米本慎一

 十二月に入ってまもなく、今秋から福岡市の近郊にキャンパスを移転した某国立大学で水素製造装置が爆発を起こすという事故があった。移転にあたって同大学は時流の温暖化防止のための「CO削減」を謳い、新キャンパスの目玉に「水素特区」を掲げていたから、総長室の上には水素の暗雲が垂れこめたことだろう。政府の「温暖化対策」は一昔前の公共土木事業よりもずさんな「事前・事後の評価なしの事業」だから爆発で装置が吹きとんだくらいで文科省から年間二億円近い科研費の返上を迫られることはなかろうから心配はいらないのだろうが、この事故のことを伝える報道に接して不思議に思ったことがある。
 爆発を起こした水素製造装置は水を「電気分解」して水素と酸素を取り出し、それを高圧で圧縮して燃料化するという仕組みなのだそうである。実用化のあかつきには新キャンパスにはCOを出さない車が走り、学生や教職員はCOを出さない環境の下、安心して温暖化防止社会を実現するための勉学や研究に取り組めるということなのだが、私が分からなかったのは水を「電気分解」して水素を製造するための電気そのものはいったいどこから引っ張ってきているのかということだった。新聞でもテレビでもそのことには触れられていなかった。
 「CO削減」を謳う工学系の大学だからCOを出さない怪しい自家発電装置かなにかを匿しているのかもしれないが、普通に考えれば水素をつくる電気は近くの火力か原発由来のはずである。当然、それらの発電所ではCOも出る。そう考えれば「水素キャンパス」は膨大な資源とエネルギーを浪費して局所的にCOを削減してみせる「見世物小屋」にすぎないはずであるが、そのことを指適する報道はどこにもなかった。

 本来、この手の研究には事前の評価(例えば「見世物小屋である」という評価)のさらにその前に@炭化水素燃料の燃焼によって人為的に排出されるCOの増大がはたして温室効果の原因といえるのか、Aそもそも平均気温の数℃の上昇が生態系に悪影響を与えるか、という問題が横たわっているはずである。
 本書『温暖化は憂うべきことだろうか―CO地球温暖化脅威説の虚構』では@について、大気中のCO濃度の上昇は何らかの原因で平均気温が上昇して地球の炭素貯蔵槽(主には海洋)に溶解している膨大な量の炭素の一部が押し出されたと理解することが科学的であると、海洋工学や地球科学の研究成果を紹介しながら主張する(大気中のメタンの濃度も気温の変動に対応してCOとまったく同じ挙動を示している。けっして牛のゲップの増加が原因なのではない)。Aについては、原因がなんであれ温室効果による温暖化は生態系にとっては好ましい、温暖で湿潤な地域の拡大として現れると説く。
 ついでに述べておけば、いわゆる異常気象は人工的な熱源の偏りから起こる可能性が高く、砂漠化とそれに伴う飢餓はグローバリズム=世界貿易の拡大がもたらしているものであることはアフリカやアジアを見渡すまでもなく、日本の農山村の過疎化・崩壊の過程を振り返れば明らかなことである。

 本書の制作をしながら思ったのは、例として出した水素特区構想と同じかそれ以下の、まったく児戯に等しいような「環境対策」「温暖化対策」が中央・地方、政府・民間の区別なく大手を振って罷り通っている今日の状況のあやうさについてである。
 局所的なCOの削減を競うような「研究」や「技術」に国民から絞り取った税金が注ぎこまれ(そのうちの大部分は重工や重電メーカー、ゼネコンに流れ込んでいる)、他方では究極の迂回生産である「オール電化システム」や石油・鉱物資源の浪費の上に成り立つ「太陽光発電」や「風力発電」などのイカサマ商品が売りまくられている社会はやはり異常である。それらのことがテレビのバラエティ番組に登場する女占い師と同レベルの「地球温暖化=灼熱地獄に落ちるわよ」式の恫喝の下、「CO真理教」とでも形容するしかない裏付けのない「科学信仰」によって煽り立てられ正当化されている世の中は「狂っている」としか思えない。
 憲法改正などするまでもなく、エコ・ファシズムは上部・下部構造ともとっくに成立しているともいえるだろう。八紘一宇・大東亜共栄圏・五族協和が、地球にやさしく・環境保護・CO削減・ロハス…にすり替っただけなのだ。
 このようなあやうい社会が到来してしまったことに新聞・テレビというメディアが深くかかわり、決定的な役割をはたしていることは誰の目にも明らかなことである。出版も下請けとして組み込まれていることは当然、自覚しておいたほうがよい。

 いつの時代でも、ものごとを在りのままに見ることはむずかしいことである。便利にはなったが夾雑物も増えたこの時代に、有象無象の餌食とならずにそれぞれが生きるに値する人生を自分のものとしていくためには、立ち止まらず思考停止におちいらず、自分の頭で考え抜いて進むべき道を切り拓いていくしかない。本書の制作を通してそういうことを学んだといったら、ブックレビューとしては身も蓋もないのだろうが。
(二〇〇六年一月近刊)

 本稿は福岡の出版社10社の共同PR紙「はかた版元新聞」2005年12月31日号に新刊(近刊)紹介として掲載したものです(見出しは「版元新聞」の時は本のタイトルそのままでしたが、今回本ホームページに投稿するにあたって変更しました)。軽い読みものにするためにすこし戯画化して書いていますが、九大(文中の某国立大学)が電気を引っ張ってくる先として「想定」しているのは海上に浮かべられた巨大な浮体構造(いかだ)に設置される大型風車だろうと思います。ただ、この風車の建設にはあまりにもカネがかかりすぎるために(原発の半分の3000億円とか)民間の電力事業者が手を出すとは考えられず、従って九大もあえて触れないのでしょう。今この構想はリタイアした構造工学の名誉教授らによって九大本体とは切り離した形でマスコミを通してさりげなくPRされている段階のようです。以下に、その後の九州大学の「水素キャンパス」をめぐる動きを簡単に追加しておきます。

水素キャンパスはどこへ行く?

◎事故の概要

 九大の水素ステーション(水素発生装置)は「コンプレッサーレス高圧水素の製造・貯蔵」を目ざしたものだった。どういうことかというと、水を電気分解して水素と酸素を作るということでは中学の理科実験と同じなのだが、それを閉じたタンク内で行うことで400〜700気圧の高圧ガスを製造する、つまり水素の製造・貯蔵に欠かせない圧縮工程を省くことが新技術の眼目とされていた。
 九大は事故の概要を@電気分解のタンク内で想定外の化学反応が起きて内部が焼けていた、Aタンク内の圧力が1000気圧に上昇して配管が破裂した、としたが、その原因として(ア)電極のチタンが高圧の酸素で発火した、(イ)水素と酸素を隔てる高分子膜に穴があいて酸素が水素側に流入して反応した、などの可能性が考えられるが特定はできない、とした。(07年4月の報告書)
 九大は「今から考えると、高圧や高濃度の酸素中での物質の振る舞いなど、基礎的な研究の積み重ねが足りなかった。このまま現方式で再開しても、同じ繰り返しになる」(事故調の委員長)として、高圧での水素製造を断念した。
 この水素製造装置は三菱商事が海外の子会社を通じて開発・納入していたもので、三菱商事は九大の実験再開断念を受けて「開発継続は難しい」としてこの子会社を解散してしまった。新聞の報道では、この装置は03年に試作原型機が爆発燃焼事故を起こしていたが、それが九大には伝わっていなかったということも明らかになったという。(07年5月25日 朝日新聞西部版)

◎熊本大の「先例」

 これは「関係者の情報共有不足」ということらしいが、私にはどこかで聞いたような話に思われてならなかった。卑近な例で悪いかとは思うが、同じ国立大学の熊本大学がひっかかったエイズ遺伝子治療未遂事件(97年)によく似ていたのである。熊大が文部省から50億円かのカネを引っぱり出して作った「エイズ治療・研究開発センター」(たしかこんな名前でした)の目玉事業として4人のHIV感染者(エイズ未発症)に無毒化したレトロウイルスを注射して感染させ、その振る舞いによって感染者の体内の免疫機能が向上するかどうか人体実験をしようと試みたものの、インフォームド・コンセントまで行って本人たちもすっかりやる気(やられる気?)になっていたところに、実はアメリカでの先行実験(200〜300人)ではまったく効果が上がっていなかったという話が飛び込んできて、結局熊大は実験断念に追い込まれたということがあった。その時、今回の三菱商事の役割を果たしたのは、アメリカの創薬ベンチャー、カイロン社の子会社からレトロウイルスの特許を買ったミドリ十字(現・田辺三菱)だった。

◎ダマシが通用する

 当時も今も「関係者」の思惑がどんなものかは知らないが、九大は高圧下の水素製造・貯蔵実験は断念するが、水素研究は引き続き推進する方針で、「実績のある圧縮機を使う方式で水素ステーションの再開をめざす」とした。いわく、「安全管理を徹底する。圧縮機を使う方式でも研究はできるはず」(別の工学部の教授)。
 おいおい、それは当初の研究目的の破綻を安全管理の問題にすりかえたダマシじゃないのか? 九大の水素ステーションは、発電→電気分解→水素圧縮→燃料電池発電と、仕事の投入を重ねるごとにガクンガクンと低下していくエネルギー効率を、圧縮工程を電気分解に組み込むことによって見せかけだけでも引き上げようとしたところに眼目があったはずなのに、“元に戻します”では「研究」の意味がないではないか−と、疑問のひとつもあがらなかったところに10年前の熊大の時よりも事態は深刻化しているのではないかと私には思われる(熊大の時は、私は熊大病院に文句を言いに行きました)。
 結局、この「水素キャンパス」づくりに携わっている研究者たちは、自分たちの研究の「評価」もできない人たちだということが改めて証明されてしまったということになるだろう。

◎産総研とロスアラモス研究所

 07年11月、その九大伊都「水素」キャンパスに独立行政法人・産業技術総合研究所(つくば市)が「水素材料先端科学センター」を開所した。これは独法が別の独法に研究委託をするだけでなく施設まで作ってしまうという珍しいもので(日本初?)、ここでは「産総研や九州大のほか各国の研究者計約50人が、水素の侵入で金属材料が劣化する水素脆化と呼ばれる現象の解明や水素の熱伝導などの研究を進め、安全性の確立を目指す」のだという。
 当初の水素ステーションの爆発原因は高圧・高濃度下での物質の振る舞いで、このセンターでは高圧下での水素製造を想定しているのかしていないのか不明であるが、気になるのは産総研の水素研究の委託先である。国内では九大であるが、海外ではアメリカのロスアラモス研究所とされ、それぞれ100億円単位の研究委託費(税金)が投入されるのだという。
 九大の研究水準が中学の理科実験室並みであることは判っているが、ロスアラモス研究所はアメリカの核爆弾製造の歴史の中で常に中心に位置してきた研究施設である。原爆を確実に爆発させる技術、あるいは軍事用原子炉からプルトニウムを製造する技術、そのような核兵器製造の中で蓄積された金属材料の開発技術が、いま最先端の「水素材料」の開発技術として数100億円の代価で取引きされているのである。「地球温暖化の原因であるCO2や他の有害なガスを出さないクリーンなエネルギーとして注目されている」燃料電池の実用化のために。
 ここには、第二次大戦以前から大量破壊兵器製造のためにつぎこまれてきたアメリカの巨額の軍事投資が70余年後の今、「唯一の被爆国」ニッポンから回収されて、さらなる「研究・開発」に投資されるというサイクルが顔を覗かせているのである。
 かなりグロテスクな構図だと思うが、見方によってはステキなことだと考える人もいるかもしれない。なぜなら、戦争のための技術が地球温暖化防止という究極の「平和目的」に転用されるのなら、それはきっとハッピーでラブ&ピースなことと彼らには思えるだろうからだ。「水素キャンパス」が完成したあかつきには、ヒロシマ、ナガサキで焼き殺された40万人の死はムダではなかったということになる。それは全人類の救済に“肯献”したのだ。そのとき彼らは言うのだろう、「私たちは過ちをくり返しませんでした。安らかにねむってください」と。
(2008年1月28日受付)

西日本新聞2008年1月6日
版元日記「氷河時代の小春日和に」
不知火書房 米本慎一


 太陽光発電や風力発電は資源節約的でエコだと喧伝されているが、本当だろうか。天気次第、風まかせの発電方式はいつストップするか予測できない。従って、エコ発電が広まっても電力の供給義務を負う電力会社は電気の生産量を減らせず、環境負荷は増えこそすれ減ることはない。生産量が減らず販売量は減り、おまけにエコ発電の余剰分まで買い取らされる電力会社は経営が悪化、ツケは電気料金の値上げとして我々に回される。こんなののどこがエコか。
 『温暖化は憂うべきことだろうか―CO2地球温暖化脅威説の虚構』が版を重ねている。幼稚な気候モデルによる未来予測から脱して、環境問題論議、エネルギー問題論議を科学の道に引き戻すことを提唱したものだ。
 現在は地球史的には氷期と間氷期が周期的に繰り返す「氷河時代」である。文明は一万二千年前の間氷期の到来とともに始まり、以後は百年で三―四度の上下は珍しくない気温の変化に翻弄され適応しながら存続してきた。氷河時代の小春日和の間氷期に温暖化を憂えることのおかしさよ。

 

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